ピックアップ

はじめに戻る

マウリ・クンナスってどんな人?

2008.10.22


(C) OTAVA / Ville Juurikkala

(C) OTAVA / Ville Juurikkala


僕は1950年2月11日、フィンランドの小さな町ヴァンマラ生まれ。父マルッティは木工家だったから、我が家の1階は旋盤や丸鋸のある作業場になっていた。僕が小さい時、父はおもちゃを作っていたんだ。人形の乳母車や、犬に車輪がついていて引っぱって遊ぶおもちゃ等。その後、家具作りに転向したけど・・・

僕もよく父の作業場でいろんなことをやった。でも、不器用だったからうまくいかなかった。釘を打っても、どれも曲がったよ。一番好きな道具はヤスリだったな・・・父の作ったおもちゃは、家の2階で色を塗った。2階は倉庫にもなっていた。「サンタクロースと小人たち」に描いた倉庫は、昔の僕の家にそっくりなんだ!

僕には、10歳ほど年の離れた兄マッティと姉ピルッコがいる。兄はとても絵がうまかった。たぶん僕よりうまいよ。でも、法学部に入ったから、法律家になったんだ。姉は色彩感覚が優れている。歌もうまくて、結局オペラ歌手(Pirkko Talola)になったけどね。母マルッタは食堂の仕事をしていたことがあって、そこで残ったドーナツを僕たちは家でよく食べた。

僕は小さい頃からよく絵を描いていた。高校の美術の先生から、絵の先生になるといいってすすめられたこともある。不器用だったけど、いろんな工作、特に紙を使ったものが好きだった。パラパラ漫画とか、クリスマス・カレンダーも作ったよ。でも、中に入れるプレゼントはなかった。1950年代、うちは裕福じゃなかったからね。

近所に友達がいっぱいいた。遊びはカウボーイやロビンフッドごっこ。武器は自分達で作ったんだ。僕が板にピストルの絵を描く。すると、父が、僕の描いた線の通りに帯鋸で切ってくれた。それから、小刀やヤスリで銃口やグリップをピストルの形に作っていく。最後に、銀色に塗ると、かっこいいピストルになったね。ピストル入れは、靴工場の廃棄場から拾ってきた皮を縫って作ったんだ。

フィンランドでドナルドダックの第1作目が出版されたのが1951年。54年には、我が家に届けてもらうようになった。僕は、ドナルドダックのお蔭で、絵が描けるようになったし、字も覚えたんだ。読み書きはずいぶん早いうちにできるようになった。3歳で自分の名前が書けたよ。他のマンガ雑誌も大好きだった。

高校を卒業するときの平均点は7(10段階評価)以下だったけど、美術はいつも10だった。
初めての図工の時間のことをよく覚えている。「夜の空」を描きなさいって言われたんだ。僕が星を白く塗ったら、みんなに笑われた。黄色く塗らなくちゃいけないんだって!? びっくりしたよ。僕には今でも星は白く見えるけどね・・・

14歳の時、初めてのギター Lucky 7 をサンタクロースからもらったんだ。高校生になって、熱心なビートルズ・ファンになった。髪も伸ばしてね。イギリスやアメリカのポップスをよく聴いた。ローリング・ストーンズ、ザ・フー、ビーチ・ボーイズ、ボブ・ディラン、ママス&パパス、ジミー・ヘンドリックス等々。ギターをかき鳴らして、みんなで歌ったよ。でも、一度もバンドに入ったことはなかった。

今でも、ギターは6本(エレキ3、アコースティック3)持っている。最近はヴァンマラの昔の仲間でバンドDZAMPSをやっているんだ。月に1度集まって、60年代のヒット曲、ローリング・ストーンズとかビートルズを弾いている。すごく楽しい! 僕にとって音楽はとても大事。だから、音楽のない人生なんて想像できないな。(マウリ・クンナス談)

(この記事の文章および画像を無断で使用することを禁じます。(C)猫の言葉社)

このページの先頭へ